Tag: AI支援

  • 科学哲学についての考察

    前回の続き。利益相反や産業構造の問題だけでなく、もっと根本的な「科学とは何か」という問題についても考えてみた。科学哲学という分野は日本ではあまり馴染みがないが、医学を理解する上で重要な視点を提供してくれるようだ。 演繹的科学と帰納的科学の違い 私たちが「科学」と聞いて思い浮かべるのは、演繹的なモデル、つまりディダクティブ・ロジカルモデルである。数学や物理学がこれに該当し、明確な前提から論理的に結論を導き出す手法である。 しかし、生物学や疫学から得られる知見は、すべて統計学を使った帰納的(インダクティブ)なものである。生物学の仮説は基本的に帰納的なもので、演繹的なプロセスはほとんど働いていないと思う。 実証の意味の違い 演繹的科学における実証とは、演繹の前提となる事柄の真実性と、演繹した結果予想されることが実際に確認されるかどうかを指す。私たちはこのような「実証」の概念を教わってきたため、疫学などで使われる統計についても、同じような科学的権威や神話性を感じてしまうのかもしれない。 しかし、生物学や医学が「科学」である意味は、実は物理や数学とは大きく異なるようだ。この違いを理解していないことが、医学における科学性の議論を混乱させているように感じる。 歩留まりの問題 帰納的なプロセスは、基本的に歩留まりの問題になる。100%確実に「これならこうなる」ということはありえない。テクノロジーも本来、歩留まりの問題である。 因果関係という概念も、本来は確率的なもののようだ。しかし、因果関係という言葉を使いながら、機能的なものを持ち込んで議論しているため、科学議論としては奇妙なことが医学の世界で行われている。そこで「科学的だ、非科学的だ」と論じるから、議論がずれていくのだと思う。 観察という行為の変質 ある解剖学者が指摘したように、現在の医師は画面に映る1週間前のデータを見て、目の前の患者を判断している。1週間前に採血した血液のデータと、今目の前にいる患者の血液は別物である。その学者はこれを皮肉って「死体を見ている」と表現した。 本来の科学の基本である「観察」が行われず、間接的なデータを見てそれを観察と錯覚している。これが現代の医師や科学者が陥りやすい陥穽なのかもしれない。 さて、私はネット上での議論は全て不毛だと思っている。科学の世界だけであればまだいいのだが、日頃触れるWebやSNS上での議論を見ると、こうした前提が共有されないままに科学的な議論をしているつもりになっている論破合戦をよく見る。もし将来自分がそんな議論に巻き込まれたら、この記事のリンクを送って終わりにしたい。

  • 科学性について

    薬害の勉強をする機会があって、「危険性の証明」、「予防原則」など新しい概念を覚えることになったので、ブログにまとめておく。特に医学における科学的根拠は誤解していたことも多かったので、間違いは多いとは思いつつ、学習記録として残しておくことにする。 医学の実学としての性格 医学は生物学の実学であり、ピュアサイエンスとは異なる性格を持っている。医学における科学性の問題は非常に複雑で、現在の医療現場では生物統計学、すなわち統計学が中心的な役割を果たしている。 統計学的手法の限界 医師たちはしばしば「サイエンティフィック」や「エビデンス」という言葉を使用するが、実際には経験主義的なブラックボックスと化した統計学の結果のみに依存している傾向がある。これは一種の推論形式、つまり科学的妥当性を確定するための機能推論に過ぎない。 従来の頻度主義統計学では、p値や信頼区間といった概念が重視されるが、これらは「データが観察される確率」を扱うものであり、「仮説が正しい確率」を直接示すものではない。一方、ベイズ統計は事前の知識と観察されたデータを組み合わせて事後確率を算出する手法であり、より直感的で臨床的に意味のある解釈を可能にする。しかし、現在の医学研究ではベイズ統計の活用は限定的で、依然として古典的な手法に依存している。 この推論形式が科学的に妥当だとされるから「科学的」だとみなされているが、実際には実態を見ているような錯覚に陥っているのが現状である。統計学的有意差などの概念が科学性の証明として扱われているが、これは本来の意味での科学とは異なるものである。 科学技術産業との一体化 フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが指摘するように、サイエンスはいつしか科学技術と混同され、その科学技術は科学技術産業と一体化している。科学性というものが科学技術産業のファンクショナリズムと結びついてしまっているため、純粋な科学的探求が困難になっている。 この状況では、将来的な有効性について「がんが予防されるだろう」といった予測的な言説が強調される傾向がある。しかし、このような未来の可能性は無限に存在するため、どのようにでも論じることができるという問題がある。 真の科学的実証の困難さ 本来のピュアな意味でのサイエンティフィックな実証を考えると、生物の多様性を踏まえれば、長期間をかけなければ最終的な結論は得られない。この点において、現在の医学研究は根本的な限界を抱えている。 利益相反の問題 現代の医学研究では利益相反の問題が深刻化している。論文を読むときは後ろから読みなさいと言われている。ランセットやニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンなどの権威ある医学誌でも、論文の末尾にCOI(Conflict of Interest)、すなわち利益相反に関する記載が必須となっている。 これらの記載には、研究費を提供した製薬メーカーの名前が全て列挙されている。読者は論文を読む前に、まずこの利益相反の情報を確認し、それを踏まえて論文を読む必要がある。 WHOと製薬産業 ワクチンメーカーであるGSK(グラクソ・スミスクライン)やMSD(メルク・アンド・カンパニー)などは、いわゆるBIGファーマと呼ばれる世界的な製薬企業である。WHOの勧告なども含めて、科学性を論じる際には、こうした産業構造との関係を注意深く検討する必要がある。 結論 薬害の勉強を始めてみて、医学における科学性というのは思っていた以上に複雑で、正直まだよく分からないことだらけ。統計学の話も、利益相反の話も、表面をなぞっただけで、本当のところはもっと深く勉強しないといけないと思う。 ただ、少なくとも「エビデンスがある」「科学的に証明されている」といった言葉を聞いたときに、以前のように無条件に信じるのではなく、「どういう研究で、誰がお金を出していて、どのくらいの期間調べたのか」くらいは気になるようになった。

  • 人生の目標を探る

    有料のTODOアプリを使っている。毎日の投薬、家族カードの引き落とし口座への振り込み、帰りにスーパーで牛乳を買う。そんな些細なタスクを管理するのに便利だからだ。 生活していると頭に常に「何かやり残しがないだろうか?」という考えが巡ってしまう性格なので、TODOリストがあると安心する。RPGだと、NPC全員に声をかけないと気が済まないタイプだ。そういう意味でも、このアプリは非常に役立っている。 TODOリストに残る未完のタスク TODOリストには、思いついたものをどんどん追加していく。最新のものはリストの一番下に追加される。簡単に終わるタスクを片付けていくと、必然的に難しいタスクはリストの上部に残る。 今、そのリストの一番上にあるタスクというのが、「人生の目標を探る」というものだ。 このタスクを追加したのは、2024年2月28日、朝8時43分。平日の出勤中。なぜこの時間にこんな重いタスクを思いついたのかは、もはや思い出せない。ただ、おそらく「人生の目標を決め、それを細かいタスクに落とし込めば、人生を充実させられる」といった趣旨の本を当時読んでいて影響を受けたのだと思う。 とはいえ、1年近く未消化のまま放置されていて完了できる見込みは全くない。「牛乳を買う」と並べるには重すぎるタスクだと思う。帰宅途中に寄ったスーパーで人生の目標が売っていたらいいのに。 しかし、TODOリストの最上部に居座らせておくのも気持ちが悪い。いい加減、決着をつけようと思った。 そもそも、目標は必要なのか? 結論めいたことを最初に言うと、人生の目標ははっきりと決める必要はないと思う。 目標とは、個人の価値観を実現するための手段だと言いかえられる。人は状況によって価値(役割)を持ち、それを果たせば次の価値(役割)が生まれる。たとえば道を歩いていて倒れている人を見つけたら介抱したとする。倒れている人に適切な医療的処置を施すなり、医療機関に送り届けるという作業が終われば、もうその役割は消えてなくなる。地域の祭りを運営する人も、祭りが終われば普通の住人に戻る。仕事も、家庭も、学校も、地域での活動も、本質的にはそれと変わらない。 「目標を持つこと」が大事だという価値観に乗っかって、「自分らしく生きよう」と考える人は多い。SNSを開くと頼んでもいないのにそんなメッセージが次から次へと流れてくる。自分のインスタはそんなのばっかりだけれど、そのほとんどがミニマリストやFIREのような、誰かが作ったマニュアルをなぞる生き方になっているのを見ると、人の想像力や評価軸なんて、その程度のものなのかもしれないと思う。 宮崎駿が、エヴァの制作で心身ともに疲弊していた庵野秀明に「自我なんて、いくら探求したところで空洞なんだから」と言ったというのをどこかで読んだ記憶がある。この言葉には共感する。 「自分探し」の旅に出る人もいるけれど、そもそも探すべき「自分」というものは存在するのだろうか。むしろ、その時々でその人の価値(役割)が変わっていくのが自然ではないか。 過酷な世界と「役割」の話 出版社で働いていた時、「一生懸命頑張っていれば、結果は後からついてくる」とピュアに信じ、激務をこなしていた。しかし、その結果、心身を壊して鬱のような状態になり結果的に退職した。 そのとき、ジブリ映画を見るのが辛かった。なぜなら、ジブリ映画の中では労働が賞賛されている。サツキもシータもキキも千尋も、義務教育期間中にもかかわらず、とにかくビシバシ働く。 「目標を見つけ、それに向かって邁進する」ことが美しいとされる世界では、そうなれなかった人生は暗に否定される。「情熱大陸」や「プロフェッショナル」も同じような理由で見るのが辛かった。だから必死に目標を探そうとしていた。 この世界は過酷だ。一度失敗したら、次のチャンスはないかもしれない。社会のセーフティネットは細る一方で、そんな中で正気を保ち続け一つの目標に向けて頑張り続けるのは無理がある。 でも、もし「正気を保つこと」が難しいのなら、せめて「今、自分にできる役割を果たすこと」に目を向けてもいいのではないか。 では、人生の目標とは ここまで考えたうえで、無理やり「人生の目標」を言葉にするなら、こうなる。 「その時々の役割を全うすること」 何か大きなことを成し遂げるのではなく、ただ、目の前の役割を、その時できるかぎり果たしていくこと。 それが、TODOリストの最上部に鎮座していたタスクへの今の所の答えだ。 今日は休み。息子と出かけたついでに彼の好きなグミを買って帰ろう。近くの花屋にも寄って、妻に花を買おう。 その道すがらチェックボックスをタップしてこのタスクを完了させた。

  • 地図が読めない

    地図が読めない 駅を出てから打合せ先である目的地までの経路を調べようと、スマートフォンを取り出す。住所を見ても頭の中でイメージが描けないので、いつものようにGoogleマップにペーストする。移動にどれくらい時間がかかるのか、自分の頭では予測ができない。正直なところ、これは上京して東京に住む前からだ。中学・高校の頃、年に一回東京に遊びに来ていた。その頃はスマートフォンもGoogleマップも、さらに言えばGoogleもなかったので、ガラケーの地図サイトを手に、自分の位置を確認しながらしか動けなかった。上京して大学の寮がある大泉学園から国分寺までの駅の乗り換えは毎回Googleが最上位に示す結果に盲目的に従っていた。 テクノロジーと失われる能力 この「地図が読めない」という話は、私個人の話ではあるが、現代人の置かれた状況を象徴していると思う。GPSのおかげで方向感覚が衰えるように、便利なテクノロジーは静かに私たちの能力を奪っていく。例えば今朝、冷蔵庫に牛乳がないことに気づき、ホワイトボードに牛乳と書こうとしたところ、「牛乳」の「乳」という漢字が書けなくなっていることに気づいた。日本語IMEの予測変換が、私たちの手書き能力を少しずつ奪っている。昔の人は夕陽を見て次の日の天気がわかったらしい。 AI への依存 最近は、疑問が湧くとすぐにChatGPTやClaudeに聞いてしまう。課金しているのだから使わないと損、という気持ちもある。長い文章に出会えば要約ツールを使い、データ分析はAIに任せ、文章を書く時も AI の助けを借りる。こうして、考えているようで深く考える機会そのものが減っていることに気づかされる。気づけば、モチベーションすら奪われているように感じる。新しい言語を学ぶ意欲は失せ、英語も「今ある能力をどうAIで補完するか」に関心が移ってしまった。どこかで、このままではいけないという思いが胸をよぎる。 人間らしさの喪失 ふと思う。この流れの先にあるのは、目の前で大切な人が悲しんでいる時に、「こんな時どう声をかけるべきか?」とAIに尋ねる未来かもしれない。「それの何が悪いの?」と問われれば、確かに悪いとも言い切れない。自分の頭で絞り出した言葉よりも、AIの導き出した最善の言葉の方が、人の心を癒すことはあり得る。 小松左京の小説『果しなき流れの果に』にこんな一節がある すでに人間は「冷酷な判断」に倦みつかれていた。—自分たち自身の、長い、残酷極まりない歴史をかえりみて、「エゴイズム」というものが、人間をどんなに無残な集団殺りくにかりたてるかを知った以上、—そして、それが、他人の死に対してどんなに冷酷にさせるかを知った以上、—「公平無私」な判断は、機械にゆだねるほかなかった。あまりにも長い、流血の歴史の直後で、人間は、自己の道徳的判断力に関する自身を喪失していた。それは道徳的堕落というべきだろうか?—むしろ人間は、機械ほど無私にはなれないということを、嫌というほど知った後で、やっと獲得できた知恵ではなかろうか? 「AIに判断を委譲していくこと、それは人類が獲得した「知恵」なのではないか」という問題は小松の小説における重要な問いだった。まさに今この問題が私たちの目の前に存在している。 テクノロジーが便利さを提供してくれる一方で、失われる能力がある。それに無自覚でいるのは、少し危うい気がする。だからこそ、自分にとって必要だと思う能力は、自ら養い続ける姿勢を大切にしたい。 迷う権利、計画的迷走 夜、家の近くをランニングした時に意図的にスマートフォンを持たず、自分の感覚だけを頼りに新しいコースを走ってみた。案の定道に迷って知っている道に戻るのに時間がかかったが、しかし、その「迷う」という体験自体が、自分の中に眠っていた方向感覚を少しずつ呼び覚ましてくれているような気がした。AIが最短で最適な手を考えてくれようが、人間には「迷う」権利とそれを行使する権利がある。