Category: Random

  • 『急に具合が悪くなる』を観た

    プロジェクトは問題が次々と起こり、弥縫策を重ね、その場をしのいでいるうちに、最初に掲げていた理想は遠ざかっていることに気づく。そんな日々の繰り返しの中で息継ぎがしたくなり、上野のTOHOシネマズで濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』を観てきた。 新作が出たら必ず映画館に足を運ぶ監督が何人かいるが、濱口竜介はそのうちの一人。3時間16分、長い。けれど終わってみると、長かったという感覚はあまり残っていない。むしろ、二人の女性が語り合い、迷い、過ごしていくだけのその時間に、こちらの体内時計の方が少しずつずらされていったような感覚があった。 あらすじはシンプルだ。パリ郊外の介護施設で施設長をしているマリー=ルーと、がんを患う日本人の舞台演出家、真理。同じ名前の二人が偶然に出会い、わずかな日々の中で深く心を通わせていく。原作は未読だが、哲学者と人類学者が実際に交わした往復書簡だという。 観終えて、数々の印象的なシーン、セリフが頭に残り続けた。この映画が描こうとしていたのは、現代社会に存在する構造の境界線をぼやかし、すり抜け、超越する可能性についてだった。それほどの深い射程があると思った。うまくまとめられるとは思わないので、思いつくままに、この映画について書いてみることにする。 贈与論 二人のマリが出会い、パリの夕暮れを語り合いながら歩く序盤のシーンがある。そこでマリーが学生時代モースの贈与論を学んでいたと口にする。『贈与論』は1925年に発表された文化人類学の古典だが、中心にあるのは、贈り物は決して無償ではない、という洞察だった。一見すると自発的で無私であり、利他に見える贈与が、実は社会的な義務の体系に支えられている。与える義務、受け取る義務、そして返礼をする義務。この三つが円環のように回り続けることで、人と人を結びつけ、社会が成り立っていく。モースはそれを、宗教も法も道徳も経済も一体になった「全体的社会的事実」と呼んだ。 マリーは介護施設のディレクターである。既存の政府からの補助金を当てにして入所者を増やす介護のあり方に疑問を抱き、「ユマニチュード」という手法を取り入れ、研修を重ね、現場に浸透させようと奮闘している。しかしその非効率で時間のかかるやり方は現場からは理想主義でしかないと反発を受け、彼女の心は疲弊し擦り切れていた。 映画を見ながら介護とはなんだろう、と考えた。与えるものと受け取るものの、明らかに非対称な関係がそこにはある。受け取った側が同じ形で返せることは期待できない。死に向かう人は、いったい何を返せるのか。返せないものを受け取ってしまうことの重さ。しかしそれは現代社会の介護報酬のように社会化されたシステムの中では贈与は薄まり、ただの処理になっていく。 大きいものと小さいもの スタッフの一人が施設を去る場面があった。大きな施設では理想は実現できない。だから自宅で小さな介護施設を開くのだという。大きい組織ではできないことが、小さい規模ではできる。その考えには確かに筋が通っている。一人一人に目が届き、関係が顔の見えるものになり、判断がすぐに現場へ返っていく。先ほどの贈与の円環も、本来そういう小さな単位でこそ回るものだ。ただ、それでもマリーは奮闘を続ける。ミニマルな実践で全ての問題を解決できるわけではない。どちらかでしか担えないことはあり、どちらも不完全。 システム 映画の中で真理がマリーに向かって、資本主義についてホワイトボードを用いながら解説と批判をするシーンがある。現代社会の問題点は、巨大な中心システムが効率的にうまく回っていると見せかけるために外部世界からの収奪をくり返している点だと説明する。その外部の中には私たちの余暇や身体まで含まれる。富と貧困、外部と中心、都市と自然、資本主義を中心としたそのシステムの暴走を止めるためにはどうするか、議論するシーンがある。肝心のそこでの議論がどう着地したかうろ覚えだが、この世界全体を覆っているシステムから逃げることはできないが、資本主義とそれ以外の世界を隔てる境界線をぼかすことはできる、と真理は話していたように思う。 エリック・ロメール ところでこの映画を観ながら、フランスの映画監督、エリック・ロメールのことを思い出さずにはいられなかった。物語の合間に、手書きの文字で日付が画面に差し込まれる(ほとんどの出来事は2025年の6月に起こっている)。それが、ロメールの「四季の物語」の一つ、とりわけ『夏物語』を思い起こさせた。ブルターニュの避暑地で、一人の青年が3人の女性の間で揺れ動く、ひと夏の物語。日記のように刻まれる日付が、すぎていく時間を区切っていく。(ちなみに『夏物語』で青年と親しくなる女性は、人類学を学んでいる。偶然かもしれないが、マリーが早稲田で文化人類学を修めた設定と重なった) フランス映画ではよく人物を正面や側面からワンカットで長く捉え、会話を細かく割らずにおしゃべりの呼吸そのものを記録していく。小刻みなカットでテンポよく見せる一般的な手法に対し、フランス映画には一つのショットに長くとどまり、相手の反応や沈黙、ためらいの「間」をそのまま画面に留めようとする伝統がある。カットを挟まずに一つのショットを持続させる手法を、長回しという。フランス語でプラン・セカンス。この映画にはそれが多用されていたように記憶している。 長回しが人を惹きつける理由は、アンドレ・バザンが代表的だが映画理論でよく論じられてきた。現実を細かく切り刻むモンタージュに対して、時間と空間を切らずに差し出す長回しの方が、現実の連続性と曖昧さと偶然性を観客に与え、解釈する自由を与える。 この映画の中では例えば、二人がパリの路上を歩くながら話すシーン、真理がホワイトボードに板書するシーン、京都の山頂でカップヌードルにお湯を注ぐシーン。 ドライブ・マイ・カー 長回しについて考えた時、濱口監督の過去の作品『ドライブ・マイ・カー』を思い出す。あの映画の中で、岡田将生が、車内でカメラに向かって語り続ける場面があった。後頭部席で、薄暗い車内で、亡き人にまつわる物語を。カメラはほぼ正面から彼を捉え続ける。 車の中にいると、普段とは違う変性意識のような状態になることがある。単調な振動、流れ続ける車窓、外界からは隔てられた繭のような空間。人が車中で普段言えない本音を漏らしやすいのも、この夢うつつの感覚と無縁ではないと思う。そして気づく。それは映画館で映像を見続ける体験と、よく似ている。暗がりの中で、一つの方向に視線を固定し、外界から遮断され流れる映像に身を委ねる。映画館の観客は、ある意味で動かない車に乗り続けて、遠いどこかに運ばれていく。だから車内で語る人物を正面で見続けるあのシーンは、その人物の変性意識とスクリーンを眺める観客である自分の半催眠の状態が二重写しになる。とても技巧的な仕掛けだと感じた。 ちなみにあの映画では岡田将生が自動車事故を起こし、事故現場で電話をかけているシーンがあった。岡田将生は自動車保険のCMに出ているので、「アクサダイレクトに電話しているのかな?」とどうでもいいことを考えてしまって、意識が現実に戻ってしまったことを覚えている。 映画館から出ると、雨はより強まっていた。予報通り台風が東京に近づいていた。理想は遠ざかり続ける。弥縫策はこれからも重なっていく。それでも追従でも逃走でもない別の道を、探り続けていきたいと思う。 映画の中で舞台演出家である真理は、公演終了後の聴衆とのQ&Aのシーンで「不可能は可能ですか?」という質問に対して、こう答えていた。「不可能は不可能です、でもそれが可能になるまでは、です」

  • 池袋で技術イベントを始めた話

    この記事は 技術イベント・カンファレンス運営のノウハウ(2枚目)Advent Calendar 2025 の 14日目の記事です。 技術コミュニティをつくった 2025年、「イケブクロ電脳組」という技術コミュニティを立ち上げました。池袋を拠点にもくもく会、LT会を交互に開催しています。池袋にはIT会社が決して少なくないのに、コミュニティが少ない(自分の観測した範囲では)と思ったのが立ち上げのきっかけです。 やったこと コミュニティの立ち上げのために、以下の作業を行いました。 これだけです。あとは当日を待つのみ。 「技術コミュニティ立ち上げ」というとすごい準備が必要そうですが、日付を決め、公民館などの会場を借りたならば、あとは極論あなた1人がそこに出向けばイベントは成立します。 実際にイケブクロ電脳組の最初のイベント参加者は1名(私)のみでした。 本当に参加者は自分1人だったので、壁に向かって発表しました。 コミュニティ設立やイベント開催のために頑張ろうと思えば無限に頑張るポイントはあります。ただ、自主的なイベントなので無理に数値目標なんか立てずに気負わずにやっていこうという気持ちでいい、人がくればラッキーと思って始めました。 参加者1人のイベントを開催したので、これ以下の結果はないなと思えたのがかえって、次回以降気負うことなく続けられるようになった良かった気もします。 イベントを主催するようになったことの効用 外部の勉強会・発表会などに参加するとき、見え方が変わってくる 「延長コード絶対いる」「タイマーはあったほうが発表者の体験いいな」「Wi-Fi情報はQRにしてスクリーンに映すとみんな繋げてくれるし対応する手間も省けるな」など、そういうのはメモして少しずつ改善していきます。不安がだんだんコントロールできるようになっていきます。 イベントを運営している方々の陰の苦労がよくわかる 技術イベントを運営する方々は、業務の隙間時間を縫って無報酬で参加していることが多いです。そのことに気づくと、イベントを開催してくれた方々に敬意を持って接することができます。 そうなると、良いイベントだったら素直に運営側に伝えられるようになるし、逆に気になることがあった時は、SNSに「このイベントここが残念だった〜」なんて書くのではなく、直接運営の人に丁寧にフィードバックするようになります。 人間関係が広がる 別の言い方をすると、懇親会でぼっちが避けられます。 これから技術コミュニティを作りたい人へ 何かオススメすることがあるとしたら、経験豊富な人に相談することでしょう。世の中いい人ばかりではないですが、悪い人ばかりでもありません。 私の場合、2024年末くらいから社外イベントに積極的に参加するようなり、その頃に知り合ったのが(当時)第3木曜LT会主催の宇田川さんでした。 宇田川さんの人の良さに甘えて、・コンパスページのレビューをしてもらったり・登壇者への事前対応を教えてもらったり・おすすめの機材を教えてもらったりしました。 それ以外にもコミュニティの名刺をつくって配る、connpassページの構成、イベント終了時に次回イベントの告知をする、事前アンケートの内容などこっそり拝借したアイディアは数知れず。それでもいつもにこやかに「大丈夫です!😎」と言ってくれるので、懐の大きさにまた甘えてしまいます。 毎回丁寧に答えてくれて感謝です。全然お返しができていませんが、できるだけ良いコミュニティに育てて継続することが恩返しだと思って2026年もイベントを継続しようと思っています。 最後に 技術イベント開催のための細かい方法論はいくらでもありますが、この記事で伝えたかったのはこれだけです。 あらかじめ決めた日時・場所に1人でも集まったらそれはもうイベントです! 軽率にイベントを開催しましょう

  • 技術書典19 参加記録

    参加のきっかけ 今回で3回連続3回目の参加。自分は何か締め切りがないと、やりたいことができないタイプ。そんな自分にとって技術書典は最高のイベントなので、軽率に参加。 書籍のテーマについて カメラを使った定点撮影の方法を自分なりに整理しておきたかったのと、温湿度以外のセンサーも使ってみたいなと申し込み時にぼんやりと考えていました(9月14日の申し込み時点では技術的には未検証)。 執筆について 前回締め切り(イベント1週間前)の1ヶ月前に書き出して大変だったので、反省を活かそうと心に決める。 2025年 技術書典19 執筆記録 振り返ると全く反省を活かせず、最後の1週間は毎日3時くらいまで執筆していました。どうしてこうなったかというと、書籍に載せる内容の技術検証をずっとやっていて、終わったのが10月14日で、そこからようやく書き出したため。申し込み時点では、書く内容は全て決まっていることが求められる。 技術書典のために継続したこと・改善点 反省点 設営 その他 値付けと売り上げについて ※オンラインマーケット期間が終わったら、詳細をまとめる予定です。 既刊本は500円で販売してひたすら赤字だったので、今回から販売価格を1000円にしました。値上げには色々と逡巡はありましたが、結果として売り上げにはあまり関係ありませんでした。 11/22時点で売り上げは128,500円。販売手数料、送料を差し引くと、100,100円。新刊の150冊分の印刷費が94,390円。これだけを見ると、「おっ、ペイしてる?」と思いがちですが、既刊本の発送費と売れ残った本を会場から自宅に送るのにかかった送料、さらにオンラインで売れた書籍を運営側に送る送料でなんやかんや15,000円くらい最終的にかかると見積もっています。送料の削減は今後の課題です。 なので今のところ6,590円の赤字です。残りのオンライン期間での販売の伸びに期待。 振り返り 去年初参加した技術書典17から今回の技術書典19まで連続して参加して考えたことは、人間関係にも「複利効果」があるのではないか、ということです。 最初の参加では知り合いは誰もいませんでしたが、回を重ねるごとに少しずつ声をかけてくれる人が増えていきました。技術系のコミュニティに積極的な方が多いこともあって、別のイベントで再会することもあり、そこから単なる知り合い以上のつながりが生まれていきました。 NISA などの投資では、資産を積み上げ続けることで複利の力が働きますが、人間関係にも同じように、継続して関わり続けることで得られるリターンがあるように思います。 私は去年まで、社外のエンジニアとのつながりは皆無でした。しかし技術同人イベントへの参加をきっかけに、考え方に共感できたり、心からリスペクトできたりする人たちと出会えるようになりました。 去年、初参加したときは「そんな人に一人でも出会えたら儲けものだ」と思って、印刷費の赤字も覚悟して参加しました。それがこの一年で、本当にたくさんの方と出会い、関係が広がり、まさに複利が効き始めたような実感があります。 今回の技術書典でも、多くの素敵な出会いに恵まれました。ここでは長くなるので感謝を伝えるのは割愛しますが、書籍の感想ポストという形で伝えられたらなと思います。 これからも活動を続けていけば、きっとまだ見たことのない景色が見えてくると思うと、ワクワクするので、無理のない範囲で参加を継続したいと考えています。次回2026年4月開催を予定している技術書典20は、記念回ということでした。参加サークルとして一緒に盛り上げていきたいと思っています。 最後に 現在も技術書典はオンラインマーケットで11/30(日)まで開催中です。この記事を公開した時点(11/22)では残り1週間。書籍が無料でついてくるのは今だけです。また既刊本が500円で買えるのも今だけ。水耕栽培やデータ活用した家庭菜園に興味のある方よろしくお願いします!

  • ExpoでのiOS, Android更新手順

    すぐ忘れちゃうので、メモ Expoクラウドでビルドファイルを作成 10分くらいかかるので、先にiOS, Androidどちらもコマンドを投げておく eas build –platform=ios eas build –platform=android iOS App Store Google Play Store

  • 技術書典19のメモ

    完全に自分が見る用です 11/15(開催)の技術書典19について、色々リアルタイムにメモしていく 9/14 (日)に申し込み締め切り。9/21(日)に当選発表。11/16(日)がオフライン開催。 前回の反省・改善点 継続すること 入稿 会場設営 今回の内容 9/27 「データサイエン入門 Arduino × Raspberry Piでつくるデータ駆動家庭菜園」を仮タイトルにした。 問題は書こうとしている技術に全く触れられていないこと。9/13日に注文したArduinoは2週間たってもまだ届かない。締め切りまで残り40日。 11/11 入稿後に追記 タイトルは「データ菜園入門 見える化で楽しむデータ駆動家庭菜園」にした。 家庭菜園要素があまりない… 結局Arduinoが届いて技術的な検証が終わったのが10/14。そこから掲載用のまとまったプログラムを作成して、文章にまとめたので、かなり大変だった。今回は小ネタだからたいしてページ数いかないだろと思ったら過去最大の本文123ページ。 最後の1週間は毎日11時〜3時くらいの間執筆していた。 校正のポイント 自分用のメモとして残そうとしたが、今回何も校正しなかった。いや校正はしたがツールを作った表記の統一はできなかった。これも次回への課題。 次回への申し送り

  • インビザライン

    歯列矯正を勧められた。 確かに歯並びが悪いことはコンプレックスだし歯並びは良いにこしたことはないので考えた。 しかし、やめた。 矯正をして、自分の審美的価値に時間をかけはじめるとキリがないと思ったからだ。 歯列矯正が終わると、次の何かに時間とお金をかけるようになると思う。 シミ除去、シワ伸ばし、ホクロ除去、毛穴、育毛・増毛、二重、髭脱毛 キリがないだろうし、自分の顔なんて自分くらいしか気にしない 終わり

  • 読書メモ:テスト駆動開発

    テストのサイクル 依存性と重複 ベンダー固有のSQL実装に依存したコードをあちこちに書いていると、DBベンダーの変更で多くの書き換えが発生するオブジェクトを使えば抽象化によってロジックの重複を綺麗に取り除ける重複を除去することによって、たった一つの変更だけで次のテストを通せるようになる確率を最大化させる テスト駆動はアーキテクチャ駆動とは正反対の手法 Value Object パターン 別名参照(aliasing)を気にする必要がなくなることがメリットequalsメソッドを実装しなければならない 三角測量 責務 インターフェースとして定義した方が考えることが少なくて済む Expressionを実装する際の言葉あとあとでクラスのメソッドの宣言をインターフェースに引き上げるときに、キャストやクラスのチェックといったコードを排除できる メタファーの重要性 銀行、式 テスト間の依存関係 テスト間には絶対に依存関係を作ってはならない オブジェクト指向プログラミングは3つの階層構造で整理できるようになっている 第32章 TDDを身につける 不安が退屈に変わるまでテストを書く テストしやすいコードは適切に分割されたコード 前準備コードの重複が多い場合、密に関連し合うオブジェクトが多いことを意味する 読んだ感想 金融システムへのある変更(多通貨対応)に対して、大きなTODOを作成する。そのTODOに至るまでのTODOを分割して作成する。それを実現するためのテストコードを書く。まずはテストを実施するために、失敗(レッドバー)を前提とした実装をする。無理矢理にでもテストが成功(グリーンバー)するようにする。全体の整合性を取るために少しずつ実装を進める。大きく実装したかと思えば微調整を加え、再検討する。出てきた問題に対してまたTODOを追加する。 どうやら、TDDというのは、技術ではなく、設計思想のことのようだ 正確にいうとAIコーディングに活用するとしたら、大きな目的を細かいTODOに分割し、適宜全体の設計にフィードバックをしながら開発を進めていく手法。当初は最初に重要なテストを列挙して、全てチェックを通れば品質が確保できるんでしょ?と思っていたが、読み進めていくと完全に違うことがわかる 細かいステップでコードの修正と解説がおこなれているので、ケントベックのライブコーディングを見ているかのよう。コードを写経しながら進めればペアプロをしている感覚が得られるかもしれない。 大事なことは大体めんどくさい 18章からは第二部、xUnit。これはJUnitのようなテストツール自体を作成することによって、テスト駆動開発を理解するという内容。 AIを知らないことをやってくれるツールとして捉えることは面倒なことの先延ばしになる。自分の力の増幅機、また自分の足りないところを気づかせてくれるツールとして捉えたい あまり難しいことは考えたくないが、考えるのをやめて「もうこれでいいじゃん」と大多数の人が思うようになった時がシンギュラリティが起こる時だと思す。 ウォーターフォール開発との親和性はあるか? 疑問 副作用、という言葉が指す範囲がよくわからない。単純にオブジェクトの変化についてなのか、もっと抽象化・一般化できることを指しているのか

  • Macの初期設定項目

    MacBook Air(M1 2020)→ MacBook Air(M4 2025)に買い替えたので、メモ 買い替え時の負荷を高めたくないので、ゴリゴリのカスタマイズはしない主義 Lauchpad Dock 設定アプリ Finder メニューバー フォント 追加したアプリ(開発系以外) 追加したアプリ(開発系) その他 よく使うショートカット Command + Shift + .:Finderで隠しファイル表示/非表示の切り替え Command + `(バッククォート):同じアプリの複数ウィンドウ間を切り替え Command + Space:Spotlight検索 Command + Shift + 4:スクリーンショット(範囲指定)スペースを押してウィンドウ全体を選択、Controlを押してクリップボードに直接保存ができる command + 1/2/3/4:Finderの表示方法の切り替え Command + Shift + H:ホームフォルダを開く(Windowsで言うとWindows + E) Command + Shift + D:デスクトップフォルダ Command + Option + L:ダウンロードフォルダ Option +…

  • 科学哲学についての考察

    前回の続き。利益相反や産業構造の問題だけでなく、もっと根本的な「科学とは何か」という問題についても考えてみた。科学哲学という分野は日本ではあまり馴染みがないが、医学を理解する上で重要な視点を提供してくれるようだ。 演繹的科学と帰納的科学の違い 私たちが「科学」と聞いて思い浮かべるのは、演繹的なモデル、つまりディダクティブ・ロジカルモデルである。数学や物理学がこれに該当し、明確な前提から論理的に結論を導き出す手法である。 しかし、生物学や疫学から得られる知見は、すべて統計学を使った帰納的(インダクティブ)なものである。生物学の仮説は基本的に帰納的なもので、演繹的なプロセスはほとんど働いていないと思う。 実証の意味の違い 演繹的科学における実証とは、演繹の前提となる事柄の真実性と、演繹した結果予想されることが実際に確認されるかどうかを指す。私たちはこのような「実証」の概念を教わってきたため、疫学などで使われる統計についても、同じような科学的権威や神話性を感じてしまうのかもしれない。 しかし、生物学や医学が「科学」である意味は、実は物理や数学とは大きく異なるようだ。この違いを理解していないことが、医学における科学性の議論を混乱させているように感じる。 歩留まりの問題 帰納的なプロセスは、基本的に歩留まりの問題になる。100%確実に「これならこうなる」ということはありえない。テクノロジーも本来、歩留まりの問題である。 因果関係という概念も、本来は確率的なもののようだ。しかし、因果関係という言葉を使いながら、機能的なものを持ち込んで議論しているため、科学議論としては奇妙なことが医学の世界で行われている。そこで「科学的だ、非科学的だ」と論じるから、議論がずれていくのだと思う。 観察という行為の変質 ある解剖学者が指摘したように、現在の医師は画面に映る1週間前のデータを見て、目の前の患者を判断している。1週間前に採血した血液のデータと、今目の前にいる患者の血液は別物である。その学者はこれを皮肉って「死体を見ている」と表現した。 本来の科学の基本である「観察」が行われず、間接的なデータを見てそれを観察と錯覚している。これが現代の医師や科学者が陥りやすい陥穽なのかもしれない。 さて、私はネット上での議論は全て不毛だと思っている。科学の世界だけであればまだいいのだが、日頃触れるWebやSNS上での議論を見ると、こうした前提が共有されないままに科学的な議論をしているつもりになっている論破合戦をよく見る。もし将来自分がそんな議論に巻き込まれたら、この記事のリンクを送って終わりにしたい。

  • 科学性について

    薬害の勉強をする機会があって、「危険性の証明」、「予防原則」など新しい概念を覚えることになったので、ブログにまとめておく。特に医学における科学的根拠は誤解していたことも多かったので、間違いは多いとは思いつつ、学習記録として残しておくことにする。 医学の実学としての性格 医学は生物学の実学であり、ピュアサイエンスとは異なる性格を持っている。医学における科学性の問題は非常に複雑で、現在の医療現場では生物統計学、すなわち統計学が中心的な役割を果たしている。 統計学的手法の限界 医師たちはしばしば「サイエンティフィック」や「エビデンス」という言葉を使用するが、実際には経験主義的なブラックボックスと化した統計学の結果のみに依存している傾向がある。これは一種の推論形式、つまり科学的妥当性を確定するための機能推論に過ぎない。 従来の頻度主義統計学では、p値や信頼区間といった概念が重視されるが、これらは「データが観察される確率」を扱うものであり、「仮説が正しい確率」を直接示すものではない。一方、ベイズ統計は事前の知識と観察されたデータを組み合わせて事後確率を算出する手法であり、より直感的で臨床的に意味のある解釈を可能にする。しかし、現在の医学研究ではベイズ統計の活用は限定的で、依然として古典的な手法に依存している。 この推論形式が科学的に妥当だとされるから「科学的」だとみなされているが、実際には実態を見ているような錯覚に陥っているのが現状である。統計学的有意差などの概念が科学性の証明として扱われているが、これは本来の意味での科学とは異なるものである。 科学技術産業との一体化 フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが指摘するように、サイエンスはいつしか科学技術と混同され、その科学技術は科学技術産業と一体化している。科学性というものが科学技術産業のファンクショナリズムと結びついてしまっているため、純粋な科学的探求が困難になっている。 この状況では、将来的な有効性について「がんが予防されるだろう」といった予測的な言説が強調される傾向がある。しかし、このような未来の可能性は無限に存在するため、どのようにでも論じることができるという問題がある。 真の科学的実証の困難さ 本来のピュアな意味でのサイエンティフィックな実証を考えると、生物の多様性を踏まえれば、長期間をかけなければ最終的な結論は得られない。この点において、現在の医学研究は根本的な限界を抱えている。 利益相反の問題 現代の医学研究では利益相反の問題が深刻化している。論文を読むときは後ろから読みなさいと言われている。ランセットやニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンなどの権威ある医学誌でも、論文の末尾にCOI(Conflict of Interest)、すなわち利益相反に関する記載が必須となっている。 これらの記載には、研究費を提供した製薬メーカーの名前が全て列挙されている。読者は論文を読む前に、まずこの利益相反の情報を確認し、それを踏まえて論文を読む必要がある。 WHOと製薬産業 ワクチンメーカーであるGSK(グラクソ・スミスクライン)やMSD(メルク・アンド・カンパニー)などは、いわゆるBIGファーマと呼ばれる世界的な製薬企業である。WHOの勧告なども含めて、科学性を論じる際には、こうした産業構造との関係を注意深く検討する必要がある。 結論 薬害の勉強を始めてみて、医学における科学性というのは思っていた以上に複雑で、正直まだよく分からないことだらけ。統計学の話も、利益相反の話も、表面をなぞっただけで、本当のところはもっと深く勉強しないといけないと思う。 ただ、少なくとも「エビデンスがある」「科学的に証明されている」といった言葉を聞いたときに、以前のように無条件に信じるのではなく、「どういう研究で、誰がお金を出していて、どのくらいの期間調べたのか」くらいは気になるようになった。