『急に具合が悪くなる』を観た

プロジェクトは問題が次々と起こり、弥縫策を重ね、その場をしのいでいるうちに、最初に掲げていた理想は遠ざかっていることに気づく。
そんな日々の繰り返しの中で息継ぎがしたくなり、上野のTOHOシネマズで濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』を観てきた。

新作が出たら必ず映画館に足を運ぶ監督が何人かいるが、濱口竜介はそのうちの一人。
3時間16分、長い。けれど終わってみると、長かったという感覚はあまり残っていない。むしろ、二人の女性が語り合い、迷い、過ごしていくだけのその時間に、こちらの体内時計の方が少しずつずらされていったような感覚があった。

あらすじはシンプルだ。パリ郊外の介護施設で施設長をしているマリー=ルーと、がんを患う日本人の舞台演出家、真理。同じ名前の二人が偶然に出会い、わずかな日々の中で深く心を通わせていく。原作は未読だが、哲学者と人類学者が実際に交わした往復書簡だという。

観終えて、数々の印象的なシーン、セリフが頭に残り続けた。
この映画が描こうとしていたのは、現代社会に存在する構造の境界線をぼやかし、すり抜け、超越する可能性についてだった。それほどの深い射程があると思った。
うまくまとめられるとは思わないので、思いつくままに、この映画について書いてみることにする。

贈与論

二人のマリが出会い、パリの夕暮れを語り合いながら歩く序盤のシーンがある。そこでマリーが学生時代モースの贈与論を学んでいたと口にする。
『贈与論』は1925年に発表された文化人類学の古典だが、中心にあるのは、贈り物は決して無償ではない、という洞察だった。
一見すると自発的で無私であり、利他に見える贈与が、実は社会的な義務の体系に支えられている。与える義務、受け取る義務、そして返礼をする義務。この三つが円環のように回り続けることで、人と人を結びつけ、社会が成り立っていく。モースはそれを、宗教も法も道徳も経済も一体になった「全体的社会的事実」と呼んだ。

マリーは介護施設のディレクターである。既存の政府からの補助金を当てにして入所者を増やす介護のあり方に疑問を抱き、「ユマニチュード」という手法を取り入れ、研修を重ね、現場に浸透させようと奮闘している。しかしその非効率で時間のかかるやり方は現場からは理想主義でしかないと反発を受け、彼女の心は疲弊し擦り切れていた。

映画を見ながら介護とはなんだろう、と考えた。与えるものと受け取るものの、明らかに非対称な関係がそこにはある。受け取った側が同じ形で返せることは期待できない。死に向かう人は、いったい何を返せるのか。返せないものを受け取ってしまうことの重さ。しかしそれは現代社会の介護報酬のように社会化されたシステムの中では贈与は薄まり、ただの処理になっていく。

大きいものと小さいもの

スタッフの一人が施設を去る場面があった。大きな施設では理想は実現できない。だから自宅で小さな介護施設を開くのだという。
大きい組織ではできないことが、小さい規模ではできる。その考えには確かに筋が通っている。一人一人に目が届き、関係が顔の見えるものになり、判断がすぐに現場へ返っていく。先ほどの贈与の円環も、本来そういう小さな単位でこそ回るものだ。
ただ、それでもマリーは奮闘を続ける。ミニマルな実践で全ての問題を解決できるわけではない。どちらかでしか担えないことはあり、どちらも不完全。

システム

映画の中で真理がマリーに向かって、資本主義についてホワイトボードを用いながら解説と批判をするシーンがある。
現代社会の問題点は、巨大な中心システムが効率的にうまく回っていると見せかけるために外部世界からの収奪をくり返している点だと説明する。その外部の中には私たちの余暇や身体まで含まれる。
富と貧困、外部と中心、都市と自然、資本主義を中心としたそのシステムの暴走を止めるためにはどうするか、議論するシーンがある。
肝心のそこでの議論がどう着地したかうろ覚えだが、この世界全体を覆っているシステムから逃げることはできないが、資本主義とそれ以外の世界を隔てる境界線をぼかすことはできる、と真理は話していたように思う。

エリック・ロメール

ところでこの映画を観ながら、フランスの映画監督、エリック・ロメールのことを思い出さずにはいられなかった。
物語の合間に、手書きの文字で日付が画面に差し込まれる(ほとんどの出来事は2025年の6月に起こっている)。
それが、ロメールの「四季の物語」の一つ、とりわけ『夏物語』を思い起こさせた。ブルターニュの避暑地で、一人の青年が3人の女性の間で揺れ動く、ひと夏の物語。日記のように刻まれる日付が、すぎていく時間を区切っていく。(ちなみに『夏物語』で青年と親しくなる女性は、人類学を学んでいる。偶然かもしれないが、マリーが早稲田で文化人類学を修めた設定と重なった)

フランス映画ではよく人物を正面や側面からワンカットで長く捉え、会話を細かく割らずにおしゃべりの呼吸そのものを記録していく。小刻みなカットでテンポよく見せる一般的な手法に対し、フランス映画には一つのショットに長くとどまり、相手の反応や沈黙、ためらいの「間」をそのまま画面に留めようとする伝統がある。
カットを挟まずに一つのショットを持続させる手法を、長回しという。フランス語でプラン・セカンス。この映画にはそれが多用されていたように記憶している。

長回しが人を惹きつける理由は、アンドレ・バザンが代表的だが映画理論でよく論じられてきた。
現実を細かく切り刻むモンタージュに対して、時間と空間を切らずに差し出す長回しの方が、現実の連続性と曖昧さと偶然性を観客に与え、解釈する自由を与える。

この映画の中では例えば、二人がパリの路上を歩くながら話すシーン、真理がホワイトボードに板書するシーン、京都の山頂でカップヌードルにお湯を注ぐシーン。

ドライブ・マイ・カー

長回しについて考えた時、濱口監督の過去の作品『ドライブ・マイ・カー』を思い出す。
あの映画の中で、岡田将生が、車内でカメラに向かって語り続ける場面があった。後頭部席で、薄暗い車内で、亡き人にまつわる物語を。カメラはほぼ正面から彼を捉え続ける。

車の中にいると、普段とは違う変性意識のような状態になることがある。単調な振動、流れ続ける車窓、外界からは隔てられた繭のような空間。人が車中で普段言えない本音を漏らしやすいのも、この夢うつつの感覚と無縁ではないと思う。
そして気づく。それは映画館で映像を見続ける体験と、よく似ている。暗がりの中で、一つの方向に視線を固定し、外界から遮断され流れる映像に身を委ねる。映画館の観客は、ある意味で動かない車に乗り続けて、遠いどこかに運ばれていく。
だから車内で語る人物を正面で見続けるあのシーンは、その人物の変性意識とスクリーンを眺める観客である自分の半催眠の状態が二重写しになる。とても技巧的な仕掛けだと感じた。

ちなみにあの映画では岡田将生が自動車事故を起こし、事故現場で電話をかけているシーンがあった。
岡田将生は自動車保険のCMに出ているので、「アクサダイレクトに電話しているのかな?」とどうでもいいことを考えてしまって、意識が現実に戻ってしまったことを覚えている。


映画館から出ると、雨はより強まっていた。予報通り台風が東京に近づいていた。
理想は遠ざかり続ける。弥縫策はこれからも重なっていく。それでも追従でも逃走でもない別の道を、探り続けていきたいと思う。

映画の中で舞台演出家である真理は、公演終了後の聴衆とのQ&Aのシーンで「不可能は可能ですか?」という質問に対して、こう答えていた。
「不可能は不可能です、でもそれが可能になるまでは、です」


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