地図が読めない

地図が読めない

駅を出てから打合せ先である目的地までの経路を調べようと、スマートフォンを取り出す。住所を見ても頭の中でイメージが描けないので、いつものようにGoogleマップにペーストする。移動にどれくらい時間がかかるのか、自分の頭では予測ができない。正直なところ、これは上京して東京に住む前からだ。中学・高校の頃、年に一回東京に遊びに来ていた。その頃はスマートフォンもGoogleマップも、さらに言えばGoogleもなかったので、ガラケーの地図サイトを手に、自分の位置を確認しながらしか動けなかった。上京して大学の寮がある大泉学園から国分寺までの駅の乗り換えは毎回Googleが最上位に示す結果に盲目的に従っていた。

テクノロジーと失われる能力

この「地図が読めない」という話は、私個人の話ではあるが、現代人の置かれた状況を象徴していると思う。GPSのおかげで方向感覚が衰えるように、便利なテクノロジーは静かに私たちの能力を奪っていく。例えば今朝、冷蔵庫に牛乳がないことに気づき、ホワイトボードに牛乳と書こうとしたところ、「牛乳」の「乳」という漢字が書けなくなっていることに気づいた。日本語IMEの予測変換が、私たちの手書き能力を少しずつ奪っている。

AI への依存

最近は、疑問が湧くとすぐにChatGPTやClaudeに聞いてしまう。課金しているのだから使わないと損、という気持ちもある。長い文章に出会えば要約ツールを使い、データ分析はAIに任せ、文章を書く時も AI の助けを借りる。こうして、考えているようで深く考える機会そのものが減っていることに気づかされる。気づけば、モチベーションすら奪われているように感じる。新しい言語を学ぶ意欲は失せ、英語も「今ある能力をどうAIで補完するか」に関心が移ってしまった。どこかで、このままではいけないという思いが胸をよぎる。

人間らしさの喪失

ふと思う。この流れの先にあるのは、目の前で大切な人が悲しんでいる時に、「こんな時どう声をかけるべきか?」とAIに尋ねる未来かもしれない。「それの何が悪いの?」と問われれば、確かに悪いとも言い切れない。自分の頭で絞り出した言葉よりも、AIの導き出した最善の言葉の方が、人の心を癒すことはあり得る。

小松左京の小説『果しなき流れの果に』にこんな一節がある

すでに人間は「冷酷な判断」に倦みつかれていた。—自分たち自身の、長い、残酷極まりない歴史をかえりみて、「エゴイズム」というものが、人間をどんなに無残な集団殺りくにかりたてるかを知った以上、—そして、それが、他人の死に対してどんなに冷酷にさせるかを知った以上、—「公平無私」な判断は、機械にゆだねるほかなかった。あまりにも長い、流血の歴史の直後で、人間は、自己の道徳的判断力に関する自身を喪失していた。それは道徳的堕落というべきだろうか?—むしろ人間は、機械ほど無私にはなれないということを、嫌というほど知った後で、やっと獲得できた知恵ではなかろうか?

「AIに判断を委譲していくこと、それは人類が獲得した「知恵」なのではないか」という問題は小松の小説における重要な問いだった。まさに今この問題が私たちの目の前に存在している。

テクノロジーが便利さを提供してくれる一方で、失われる能力がある。それに無自覚でいるのは、少し危うい気がする。だからこそ、自分にとって必要だと思う能力は、自ら養い続ける姿勢を大切にしたい。

迷う権利、計画的迷走

夜、家の近くをランニングした時に意図的にスマートフォンを持たず、自分の感覚だけを頼りに新しいコースを走ってみた。案の定道に迷って知っている道に戻るのに時間がかかったが、しかし、その「迷う」という体験自体が、自分の中に眠っていた方向感覚を少しずつ呼び覚ましてくれているような気がした。AIが最短で最適な手を考えてくれようが、人間には「迷う」権利とそれを行使する権利がある。


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